防災・減災への指針 一人一話

2013年12月20日
内陸部にある小学校での震災対応
多賀城市立山王小学校
A先生さん
多賀城市立山王小学校
B先生さん

校舎が倒壊するかと思う程の揺れと恐怖を感じて

(聞き手)
 発災直後はどちらにいらっしゃいましたか。

(A先生)
当時は校舎と体育館の間にいました。午前中に多賀城第二中学校卒業式があって、貸していた雛壇や椅子をトラックで取りに行き、小学校に戻ってきた時でした。山王小学校校舎が縦に揺れているのが見えて、もし同じ規模で横に揺れていたら倒れるのではないかと思いました。
ちょうど1年生が下校して昇降口から出てきたところだったので、みんなを集めて落ち着かせていました。

(聞き手)
発災直後に津波が発生すると予見できましたか。

(A先生)
多賀城市内に津波が来る可能性は全く思い浮かびませんでした。教室には子どもたちがいたので、それだけが気掛かりでした。

(聞き手)
その時、校舎内には何人くらいの児童がいたのでしょうか。

(A先生)
全校児童だと当時は750名でしたが、1年生が下校していたので、640名だったと思います。

(聞き手)
校舎は何か被害を受けましたか。

(A先生)
机はほとんど倒れていました。蛍光灯のカバーが外れ、上に置いてあったものが落ちて壊れていて、壁には亀裂が入っていました。電気も消えていましたし、崩れるのではないかという恐怖から、校舎の中に入るのが怖かったです。

(B先生)
体育館の床が歪んで、ボールを置くと転がっていくような状況でした。

(聞き手)
発災直後はどのような状況だったのでしょうか。

(B先生)
揺れが来た時は校舎の4階にいました。数日前に地震があったばかりなので、緊急地震速報が入った瞬間に、子どもたちはすぐ机の下に潜って身を隠していました。あまりにも長い揺れで、教室にある備え付けの棚が倒れてきました。その上にベルトでテレビを固定していたのですが、放り出されて跳んできました。落ちた先が机だったので良かったですが、恐ろしかったです。
教室の大きな水槽が揺れ、水がまき散らされたりしていて、子どもたちは泣き叫んでいました。
何度も余震が襲ってきたので、しばらく外に出るタイミングが掴めませんでした。
このまま校舎が崩れて生き埋めになってしまうのではないかと思い、祈りながら必死にドアを抑えて揺れが収まるのを待っていました。校内放送は途中で切れてしまったのですが、少し揺れが収まった時に当時の教頭先生が駆けてきて、全員避難するように言われたので、タイミングを見計らって外に出ました。

(聞き手)
直後に津波が来ると予想出来ましたか。

(B先生)
津波の事まで考える余裕はありませんでした。泣いている子どもたちを励ましながら、全員を校舎から出すのに必死で、外に出た時に一旦緊張が解けても、冷静に考えられない状態でした。
自分自身は寒さを感じませんでしたが、凍えている子どもを見てどうしようかと考えていました。迎えに来た保護者の方には、お子さんは無事だと話をしました。

(聞き手)
小学校という事で、住民の方も一斉に、避難のためいらっしゃいましたか。

(A先生)
しばらくしてから、小学校の体育館に住民の方が避難して来られました。

(聞き手)
震災初日は大体何人くらい、避難された方がいたのでしょうか。

(A先生)
迎えの来られた保護者の方に子どもたちを引き渡していたのですが、雪も降っていて暗くなったので、残っている子どもたち200人位を体育館に入れました。そこに地域の方々も来たので300人位いたと思います。

(聞き手)
皆さんの様子はどうだったのでしょうか。

(A先生)
比較的落ち着いていたように思います。子どもたちと地域の方の場所を区切って、PTA会長さんを中心に動いて頂きましたので、混乱などは特にありませんでした。
初日は食糧がありませんでしたが、翌日からパンなどの支援物資が届いたので、食べ物は何とかなりました。ただ、空腹を満たすほどはなかったので辛かったです。2日目と3日目は発電機を借りてきて、ご飯を炊き、おにぎりを作って食べました。

コンビニを活用した安否確認

(聞き手)
下校途中の1年生の安否確認は出来たのでしょうか。

(A先生)
1年生については、先生方が登校班という組織を持っていて、それぞれの担当を回って確認していました。
また、保護者に引き渡した後の安否確認もしました。
コンビニに画用紙を貼らせて頂いて、見かけた友だちの名前を書いてくださいというようにしたら、随分と書いていただきました。そういったことを、何日間か掛けて、手分けして行いました。

(聞き手)
 当時の対応や行動などで、うまくいった事と大変だった事は何でしょうか。

(A先生)
PTA会長さんや市職員の方が中心になって声掛けをしてくださったので、ある程度の統制は保てました。
山王小学校が避難所になっていた期間は比較的短くて、3月24日まででした。
3月25日に終業式と卒業式をする事になっていたので、6年生4クラスの担任と私とで準備をしました。
当日は、時間や内容を変更して開催したのですが、それでも今までで一番良い卒業式だったように思います。
震災があって色々大変でしたが、子どもたちを無事に送り出す事が出来て良かったです。

「繋がる」ことで絆を深める

(聞き手)
発災当時の対応で大変だった事、または良かった事は何ですか。

(B先生)
校舎は平成20年度に耐震補強工事をしていたのでどうにか無事でしたが、もし、していなかったらどうなっていたかを考えると、背筋が凍る思いをしました。
それとやはり、避難訓練の大事さを強く感じました。子どもたちが泣きながらもきちんと並んで落ち着いて待てたのは、訓練を積み重ねての学習で出来た事だと思うので、今後も続けていきたいと思います。
他には、後からお聞きしたのですが、地域の消防団の方々が有志を募って、農家さんの家に足を運び、少しでも避難所にお米を分けてもらえないかと頼み込んで、分けてもらったものを学校に持ってきていただいたという話があり、とても感謝しています。

(聞き手)
日頃から地域住民の方と繋がりを持つために行っている事はありますか。

(A先生)
学校の行事として、子どもたちがお祭りを開き、保護者の方や地域の方も参加して交流しています。
他には、社会科や総合的な学習の中で、地域の田んぼを借りて田植えや稲刈りをするといった事や、ネギの畑の見学に行くなど、地域と繋がりを持つようにしています。
繋がり」という事で、ふっと思い出したのですが、山王小学校という同じ名前の小学校が全国に何校かあるのです。
そのような縁で、石川県七尾市と、東京都の大田区、埼玉県の狭山市の山王小学校から支援を頂きました。
そして、その繋がりを大事にして交流を持とうという事で、去年、狭山市の山王小学校にPTAの役員と職員の何人かで伺いました。
今年は石川県七尾市に出向きましたが、逆にあちらの方も来てくださり、PTAの方を中心に交流を進めているところです。

震災を契機にした交流

(聞き手)
震災を通じて、新たに交流が生まれたという事ですか。

(A先生)
そうですね。以前はそのような関わりは全くありませんでした。それで、私たちが向こうの学校を訪問した時に、震災当時の話や状況についてのスライドショーを見てもらいました。震災から3年が経つという事で風化が懸念されますが、それを防止する一つの方法になると思います。

(聞き手)
 これからの多賀城市の復旧、復興では、何が大切になってくるとお考えですか。

(B先生)
復旧復興といってもまちが再建される事だけではなく、子どもたちの心のケアも大事だと思います。
環境づくりもそうですし、子どもたちの気持ちを発散させてあげる事を大切にして、学校にいる一教員として、できる事をしていきたいと思っています。
震災の影響を受けている子どもたちが少なからずいますので、様子を見ながら、風化させないために教訓を伝えていきたいです。

パターンを変えた避難訓練の実施

(聞き手)
震災後、山王小学校では防災や減災などの新たな対策や訓練はされていらっしゃいますか。

(A先生)
休み時間に地震が来て、みんな違う場所にいる時の避難の仕方という訓練を増やしました。
1時間使って訓練していたものを、休み時間の短時間で行い、以前より避難訓練の回数を増やしました。
また、子どもたちに避難訓練の予定を事前に教えないなど、パターンを変えて訓練しています。

(聞き手)
先ほど、心のケアというお話が出ましたが、普段、児童と接する場合に注意している事は何ですか。

(B先生)
現在、私は担任を持っていないのですが、3年生の子どもたちに理科を教えているので、楽しいと思えるような体を動かす体験を増やして、声を沢山掛けてあげるようにしています。

(聞き手)
 震災を通して得た教訓や、後世に伝えていきたい事はございますか。

(A先生)
地震が来なかったら訓練しても無駄だという考え方もあるかもしれませんが、何かの役に立っている事がほとんどです。
それは自分自身で学んだ教訓なので、子どもたちに限らず、周りにもそれを伝えていこうと思います。

(B先生)
避難訓練による心の備えもそうですし、地震を想定して備蓄をしておく事が大事だと思います。
子どもたちが大きくなって次の世代にも伝承出来るように取り組んでいきたいと思います。

(聞き手)
 その他、何か話しておきたい事はございますか。

(A先生)
多賀城市は被害に遭った場所も多いのですが、市内小中学生の誰一人として亡くならなかったので、それは誇れる事だと思います。
ただ、あれから3年が経ちましたが、当時の事を思い出すと私も段々忘れてきた部分もあります。
また、何かあった時のためにというわけではありませんが、やはり日頃からいろいろな方と繋がりを持っておく事は大事だと思いました。

(B先生)
今、復興に向けて動いているところですが、当時は全国からも沢山支援を頂きました。応援に来てくださった方々には感謝しています。